無駄記事

無駄の言語化の試み

無駄とは。 世界は必要にあふれている。 必要であることは重要だ。だが、物事には無駄であることも必要だ。

余計なこと。不要なこと。見逃してしまうこと。考えもしなかったこと。 いらないもの。ネタでしかないもの。1度だけ使ったら十分なもの。人生においてメリットの欠片も思いつかないもの。その場の勢い。 ニッチであること。大衆的でないこと。少数派であること。 何の役にも立たないこと。 笑えること。深そうに思えること。 生きる上で不必要なこと。考え。

理解すること。本質を知ること。本能。結果を意識しないこと。 過程を楽しむこと。見返りを求めないこと。 全ての物事を楽しむこと。迷惑をかけないこと。 わがままであること。夢を持つこと。自然体でいること。 インプットを多くすること。アウトプットを多くすること。 責任を考えないこと。身勝手であること。 無駄であることの思考を巡らせること。 無駄の議論をすること。 無駄な議論をすること。 形にすることを恐れないこと。すべては自己責任である認識を持つこと。

  • 無駄ではないこと
  • 無駄を楽しむことの重要性
  • 無駄を追求することのメリット
  • 無駄を生み出すための環境づくり
  • 無駄を活用する方法
  • 無駄についての社会的見解の変化
  • 無駄

無駄を楽しむことの重要性

無駄を楽しむこと。 現代は情報や効率化にあふれている。 生産性高く、情報の選別をし、身に着けていく。 確かにその行動は重要なことで必要なことではあるのだが、 その生き方が選択できる人には良い習慣なのかもしれないが、 人間、時には不要で無駄なことを考え、実行することも必要ではないだろうか。

そもそも、何のために生きているまで考える。 仕事をするため?お金を稼ぐため?生きるため? そもそも生きる目的など考える意味はあるのだろうか。 人間が存在している意味、意義は。自分が生まれた意味と役割は。

人間には無限の可能性があるが時間は有限で、その限りある時間をどう使うかで人生の密度が変わってくる。

・・・などということをいろいろと考えたところで、無駄である。 しかし、こういうことを考える無駄を私は推奨したい。

無駄とは浪費であり、消費である。決して投資ではない。 よくあるビジネス的な本とかを読むと、「浪費、消費をせずに投資をせよ」とか書いてある。 間違いではない。故に無駄的観点からすると間違いだ。

無駄とは有益からは程遠いものだ。 結果的に有益になる可能性も否定できないが、それは結果的にであって、行動の理由ではない。 なにせ、無な上に、駄なのだ。 漢字を見ても、そこにメリットなど感じえない文字しか並んでいない。

とはいえ、実際どういうものが無駄に該当するのかがいまいちピンとこないかもしれないので例を出そう。

例1

突然アップルパイを作りたくなって、材料から道具から突発的に購入し、勢いで作って割と美味しかった。

THE・無駄行動である。 アップルパイなんて食べたかったら買ってくればいいだけだし、美味しいお店もたくさんあるのにも関わらず、道具やら材料やら買い込んで失敗するリスクも考えずにレシピを見ながら作る。 しかも無難に普通に美味しいものが完成する。 そもそも材料だけでなく道具も買っている(パイ型など)ので、金銭的にも無駄だ。 そのお金で美味しい有名店のアップルパイも買える。

素晴らしい。素晴らしい無駄だ。なんといっても、これは私の実体験だ。

なんで自分で作ったのだろう。不思議だが、得るものもあった。 アップルパイを自分で作ったという話ができるようになったことだ。 特にそれ以上のものは無い。

美味しいアップルパイが作りたい、なんて考えるタイミング、お母さんが昔作ってた味を再現したいとか、貧乏時代に友達をお金を出し合って食べたアップルパイが涙がでるほど旨かったとか、不味いアップルパイしか世界に存在しないから自分がうまいアップルパイを作りたいとか、そういう理由が無いと考えないだろう。

唐突に、本当に唐突にでてくるのだ。頭の中に、「アップルパイ作りてえな」って。 狂っているとしか思えないが、それが無駄行動なのだ。 そこに理由は無い。ただただ行動する。目的は「やってみたい」ただそれだけだ。

例2

部屋で闘牛ごっこしてえ~~~俺は牛な。→窓ガラスに突っ込んで粉々に割る

頭おかしいのか? こんな行動するなんて、何を考えているんだ。 言わずもがな、これも私の実体験だ。

一体何が切っ掛けだったのだろうか。さすがに事細かには覚えていない。 闘牛の動画を見たかといえば、見ていないし、前世が闘牛だったわけでもない。 スペイン人とのハーフだったわけでもないし、牛に並々ならぬ共感を抱いていたわけでもない。

なんかこう、多分頭によぎったのだ。「闘牛ごっこしてえ」って。

その結果、勢い余って窓ガラスに頭から突っ込んだ。 後にも先にもマイナスしか生まれない行動で、今考えてもなんでやったのか理解不能だ。

おそらく、本当に何も考えてなかっただけだろう。 じゃないと、自分から牛になることはそうそうない。 しかも窓ガラスを割っている。

得られたものは特にない。この体験談を話すことができるようになったという、他の何にも代えられないものだけは得られたが、失ったものも多かった。

だが、無駄行動であることに間違いはない。 ちょっと方向性が狂ってしまったことは否めないが。

今あげたものは一例だ。 こんな狂ったものを例として挙げられても眉間にしわを寄せることしかできないかもしれないが、本質は変わらない。

  • 見たらかっこよかったのでサルサを習い始める(ガチ)
  • ピアノをやってたが、ドラムの方がいける気がしたのでドラムを習い始める(ガチ)
  • めっちゃ使うと思ったiPadProを勢いで買った(24万)が全然使わずヤフオクで売った(15万)
  • ドーナツ60個買って突っ張り棒に刺していきドルアーガの塔をつくる

など、本当に生産性も未来性も考えていない。 人として生きるのに不都合が多すぎる。だが、それが人間の生き方ではないだろうか。

良い方だけに行こうとすればいけるのだろうが、それはつまらない。 ビジネス的にはリスクをとれ!とか言われることもあるのだが、そのリスクは打算あってのリスクだ。計算した結果、リスクをとるべき価値がある!と判断した上での決断。

しかし、それは無駄ではない。 無駄は「リスク?時間?知らんけど楽しそうだしとりあえずやってみる。」という感じに近い。 もちろん、犯罪行為危険行為はご法度だ。命あっての物種であるべきだし、きちんと法に従った行動をすべきだ。

無駄とは無秩序ではない。 秩序が存在するが故の無駄なのだ。 ここをはき違えてはならない。 他人に迷惑をかけてはいけないと、子供の頃に教わっている人が大半であるハズだ。 やってみたいからという理由で家を燃やしてはいけない。 もしやりたい場合はゲームを作って、バーチャル空間でやってほしい。 やりたいだけで作った無駄行動かもしれないが、結果的にゲームが作れるようになり、本格的に極めれば火災シミュレーションシステムなんかができあがるかもしれない。 見事なまでの無駄行動の結果、世の中の役に立つものが勝手にできあがるのだ。 動機は不純だが、動機など後付けでなんとでもなる。

大事なことは、打算的では生まれないものが山のように存在するということだ。 誰かの無駄が誰かの利益につながっている。

無駄をしよう。 無駄を楽しもう。

No Muda, No Life.

哲学としての無駄

無駄とは哲学的だ。 概念的、と言い換えてもいいかもしれない。 ある意味、思考の中にしかないものである。

哲学として無駄を見た時にどういうことが起きるかを書いていきたい。

哲学とは

世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問。 とらわれない目で事物を広く深く見るとともに、それを自己自身の問題として究極まで求めようとするもの。

古代ギリシアでは学問一般を意味していたが、のち諸科学と対置されるようになった。 論理学、認識論、存在論、哲学史、倫理学などの諸領域を含む。

ということらしい。

つまり、無駄において、究極の根本原理を客観的・理性的に追及していく。 そして自己自身の問題として究極まで求めようとすること。

無駄の根本原理とは

そもそも無駄とは何なのか。 ネットで調べると「役に立たないこと。効果、効用がないこと。」とある。 確かにその通りではあるのだが、この文章だけでは説明しきれない、深いようで浅いような、原理原則がある。 おそらくだが、この文法としての「無駄」とは、本当に何も生まれないものを指すのだろう。 すでにある印刷物を印刷してしまったり、1度で運べばいいものを2度3度分けて運んだり。 これは確かに無駄な行動だ。しかし、ここで提唱する無駄とは大きく異なる。

無駄(これ以降、無駄という単語は私の提唱するものとする)とは、生産的であってはならない。これは既存のものとも合う。しかし、大きく異なる部分は、自ら進んでやるか否かという部分だ。

無駄であるとわかっていながら行い、それを楽しみ、慈しむ。既存の無駄は省くものだが、私の無駄は愛すべきものだ。

無駄なものというものは、無意味で無益だ。だがそこに、笑顔がある。 物体としての無駄は、非常にクールな物が多い。 デザイナーのプロダクトとしても稀に見かける。こんな無駄なものを作ったとSNSに書かれ、そしてバズることも多い。 本当に文法的な無駄なものであれば、批判される可能性も否定できないが、そうではない。 皆、無駄を求めているからこそ本能的に抗えない魅力が存在する。

人間は無駄を追い求めている。だからこそ、効率的に生きるのだ。

無駄な活動は、常にするものではない。 本当に無駄なことを追い求めるのであれば、技術、知識は必要不可欠である。 故に、それらを学ぶために多くの時間を費やす。それは効率的であることに越したことはない。 そして、学んだことを活かし、無駄なことをするのだ。 例えば、ゲーム制作。 ゲームとは娯楽。娯楽に時間を費やすというのは、根本的には無駄なことである。 一概にゲームと言っても学習となるものも多いが、ハイパーカジュアルゲームにおいては本当に無駄な時間を費やすものが多い。 ゲームにおいて非常に重要な無駄さとは、結局のところ遊び心だろうか。 無駄とはビジネス的であってはならない。 結果としてビジネスになったとしても、その成り立ちからそれであってはならない。 無駄なものにおいて、目的は無駄であるべきである。 いや、目的など無いともいえる。 強いていうのであれば、後付けしても全く問題ない程、目的というものが重要視されていない、行動そのものが目的である。 そこから何も発展させるつもりが無く、行動して終わり。 しかし、あらゆるものを生み出すために必要な根本でもある。 つまり無駄というものは、すべての源泉であるが何も生み出すつもりが無い行動である。

かのエジソンは、「失敗ではなく、うまくいかない1万通りの方法を発見した」と言ったそうだ。 語られていないかもしれないが、たぶん、エジソンも楽しんでやってたんじゃないかと思う。 そう、無駄とは失敗ではない。成功のための糧である。 楽しいからやってたらなんかうまくいった、という逸話はいくらでもある。 無駄とは楽しい。打算とか、生産性とか、そんなもの全て置いておいて、楽しいのだ。 急に旅行に行ってもいいし、マンホールの数を数えてもいいし、道路の白線を落ちないように歩いてもいい。急にガラケーに買い替えてみてもいいし、一度も使わないものを笑うために買ったっていい。 無駄とは人生においてのエッセンスだ。 無色に色を加える。あらゆるものに無駄は存在する。そして、その無駄を発掘し、楽しむことが無駄の真骨頂なのではないだろうか。

無駄活のススメ

無駄活とは、無駄的活動のこと。 毎日本を読んで勉強すると今後の人生に大きく違いがでるという。 成人後の日本人の平均勉強時間は13分らしいが、平均無駄時間はどれくらいだろうか。 読書も無駄活の一環と考えれば、いろいろと可能性が広がる。手軽な無駄活だ。 今後のためになる知識を学ぼうとするのは論外だ。 ためになる知識を学ぶのであれば、これから行う大いなる無駄の為の知識。 何度も言うがゲームを作りたいのであれば前提となる知識は必要となる。 プログラミングなのか、ボードゲームならばデザインなのか、いろいろとある。 もちろん無知識で作れるものでもよいが、なんにせよ行動を起こすことだ。 役に立たない知識など無いとよく言うが、無駄な知識はたくさんある。 唐突に妖怪について勉強したところで、それが急に仕事になるかと言われれば、否である。 もちろん、友人や仕事先で妖怪談義に花が咲く可能性は否定できないが、それはあくまで結果であって、それを期待して学習するわけではない。 しかし、それこそが無駄活だ。

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